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辺境×日記

ごく個人的に思う事を書く

結婚したい

人生

とにかく結婚したい。

 

僕には、今、2年付き合っている彼氏がいる。
今までいろんな方とお付き合いして来たが、彼とは一生を共に過ごしたいと思うのだ。
そんな訳で、僕は彼と結婚したいと思う。

 

でも、ご存知の通り、日本では男性どうしで結婚する事はできない。

 

僕が彼と結婚したいと思うのは、
「誰もが平等に結婚できるべきだから」
「二人の愛の証明として」
ではない。

 

そんな観念的なことには興味ない。

 

結婚できないと、実害があるのだ。

 

僕が今一番恐れているのは、僕ら二人のうちいずれかが亡くなる時の事。

病院で「御家族以外面会謝絶」となった時に僕は彼のベッドの側に居れるのだろうか?
治療法に関する決定事項に、「家族」の立場で参加できるのか?
また、亡くなった時に、僕は彼のお葬式に参加できるのか?喪主になれるのか?

 

彼の実の家族は、年老いた両親と、音信不通の兄の3人である。
現状では、彼ら3人と比べると、僕は圧倒的に「他人」である。
お互いに「お葬式どうしようねー」とか、「介護はたのむよ」などど(冗談もまじえながら)相談する事も多いと言うのに。

 

人生の最期に、彼との繋がりを断たれることを、本当に恐れている。

 

もし、繋がりを断たれたらどれほど悲しいだろうか。
ただでさえ、彼との本当の「別れ」となるのに。

 

逆に、もし自分が先に亡くなるとしたら、彼は同様の苦痛を味わうことにならないだろうか。
最期に彼を悲しませることにならないだろうか?

 

僕が亡くなったとしても、彼にはできるだけ楽しい人生を過ごしてほしいと思う。

 

今二人で旅行に来ている。
彼は隣のベッドでぐっすり眠っている。
世間体を気にする彼は、旅行のホテルは「ダブル」ではなく「ツイン」しかとらない。
彼の繊細な心を最期の時にも搔き乱したくないのだ。

アウティングの恐怖

人生

一橋大の痛ましいアウティング自殺のニュースが再び話題になっている。

www.buzzfeed.com

この手のニュースは最近では往々にして法律問題に帰着されがちだ。
この件に関しては、遺族の方々が裁判で争うとの事なのでそれはそちらで頑張ってもらいたいと思うが、そもそも「アウティング」がどれほど恐ろしいものであるかを僕は若い頃に目撃した事がある。

 

25年前、僕は数百人規模の学生寮に住んでいた。

 

時々漫画で、「女子寮に男が僕一人だけ!?」でウハウハになるというものを見るが、同性愛者にとっての男子寮はそんなに楽しいものではない。

プライバシーのない状況で、自分が同性愛者だとばれる危険におびえながら毎日暮らさねばならないのだから。

 

そんな環境で、ある日、僕の1学年下のA君が同性愛者だという噂が寮内に広がる。
実際に同性愛者向けのエロ雑誌が彼の部屋から発見されたというのだ。
当時の僕には、プライバシーの無い寮にそのような雑誌を持ち込むなど、考えも及ばないことであった。彼は大胆な性格だったのだろう。

 

それからその噂は寮全体に狂気を巻き起こす。

 

A君が帰省している間、複数名で彼の部屋に勝手に立ち入り、机の鍵を壊し、引き出しの全てをぶちまける。
彼のあらゆる私物は荒らされ、おそらく彼が大事にしていたであろう手紙の類いも全て開陳されてしまった。

 

そして、彼が持っていたという「エロビデオ」が発見され、寮のフロア一箇所だけにあったテレビのある部屋で皆で「鑑賞会」をしたそうな。
僕にもそこに来ないかとの声はかかったが、そんな恐ろしい場にはもちろん行けなかった。

そんなものを寮内に持ち込んでいるA君もどうかと思うが、それにしてもこの扱いは酷いものであった。


そして、恐ろしいことに、これらの蛮行を周りの全員が純粋に「楽しんで」いるのだ。

僕はその事件がきっかけで、徹底的に自分の素性を隠すことにした。

 

島崎藤村の「破戒」に、こんな一節がある。

父はまたつけたして、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望、唯一つの方法、それは身の素性を隠すより外に無い、『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人にめぐりあおうと決して其とはうちあけるな、一旦の憤怒悲哀にこの戒を忘れたら、其時こそ社会から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのである。

まさにこの気分。

 

当時はLINEもなければ、ましてや携帯電話すらない時代だった。
報道によると一橋大の彼はLINEで暴露されたとのこと。
彼はどんな気分だっただろうか。

 

一瞬で周囲の全員から奇異の眼差しを向けられることは、あの年代の青年には耐えられないだろう。
ストレートにも「理解のある人」というのはいる。しかし、彼の状況ではその「理解のある人」からの憐れみの眼差しすら針のむしろだったのでは。


その人間関係から逃げ出そうにも、一橋のような名門大を辞めることは、育ててくれた親への義に反する。
彼に逃げ場が無くなったことは容易に想像できる。

 

僕はこの件の法律的な解決には今のところ注目していない。
彼にとって「法」という普遍広範なツールより、まずは周囲の人間から一気に疎外されたというミクロな問題が致命的だっただろうから。

 

ちなみに僕が若い頃には、「アウティング」なる言葉は無かった。
正直言って、横文字化することでこのおぞましく残酷な行為の印象が薄まっていると思う。
ここら辺についてはまた今度。

これまで隠していたこと

人生

ブログのタイトルを「辺境×日記」に変更したので、このブログと僕の紹介を書こうと思います。(→今週のお題「自己紹介」)

このブログについて

最初にこのブログを始めた時は、

「ブログでお小遣いでも稼げればいいな」

という気持ちでした。

アフィリエイトも貼ったりなんかして。

 

でも、それは早々に諦めました。(まず儲からないし)

 

しかし、いろんな方のブログを読むにつれて、自分では予想もしなかったのですが、

「自分も儲け度外視で、自分の思う事を素直に書いてみたい」

と、思うようになってきました。

なぜ素直に書きたいか

僕は日常生活で自分の考えを極端に隠して生活しています。

会社に対しても、友人に対しても。

 

ブログのタイトルを変更する前は、ここでも同様に、自分の考えを隠して書いていました。

 

そういうわけで、どの記事も歯切れの悪いこと悪いこと。

こんな執筆作業を続けることに、何か意味があるんだろうか?

 

もうすこし自分の考えを前面に出した記事を書いてみたい。

 

でもね、、、。

転機

そして最近、ある外国のニュース記事が、僕の胸をかきむしります。

 

そのニュースを読んでからというもの、何度も自問しました。

僕はこのまま自分の考えを隠していく人生でいいのだろうかと

 

日本でもタイムラグはあったものの、そのニュースの一部が報道されました。

www.afpbb.com

「チェチェンで同性愛者が次々に拷問にかけられている」

 

現在のチェチェンでは、同性愛者を次々捕まえ拷問にかけています。

そして、知り合いの同性愛者の名を自白させ、その知り合いの同性愛者も捕らえ、拷問に、、

という事をひたすら繰り返しています。

 

僕にはこれが未来の日本に思えた。

もっと言うと、日本だけではない、未来の世界に思えた。

 

僕は同性愛者です。

僕はこれを隠して暮らしている。

僕の周りの状況

今の日本でさえ、残念ながら僕らはこれを隠さないと生きていけない状況です。

 

職場でしばしば「笑い事」として垂れ流される、同性愛者への差別・嫌悪発言を聞き流しながら思う。

これを隠さずに生きていけたら、どんなに楽であろうかと。

 

また、日本を含む世界の様々な国家が、マイノリティを「害悪」とみなすことで、国家の結束を固めようとする傾向が強まっているのを日々感じる。

 

僕は、、僕らの世代は、このまま隠し通して人生を終えることができるかもしれない。

 

でも、この日本で、僕らを取り巻く状況がチェチェンのように悪化していったら、、

僕らの次の世代の同性愛者たちはどうなるだろうか。

 

僕はこのまま隠して人生を通過していいのだろうか。

 

偶然にも、ここにブログなどという場がある。

ありがたいことに、わずかな訪問者もいる。

 

ここなら僕が日々思う事をそのまま書いてもいいのではないか。

隠さずに暮らす第一歩になるのではないか。

僕の立場、このブログの主題

僕はこれまで同性愛者の権利に関する活動に関与したことはない。

最近「LGBT」でひとくくりにされる類の話にも、いまいち全力で肯定できない複雑な心境です。

そして、同じ同性愛者の友人にさえもこんな話をすることはない。

ここらへんについては、今後また書いてみたいと思います。

今後

自分の日々思う事を書くにあたって、自分が同性愛者であるという事実を避けながら書くのは面倒な事この上ない。

これまでこのブログで40記事ほど書いたけど、当たり障り無く書くのは大変でした。

 

これからはその制限を外し、自由に文章を書いていきたいと思います。

浅はかなことを書くかもしれない。

人を傷つけることを書くかもしれない。

そういう場合は、いろいろとご批判をいただければと思います。

 

長くなったので、まずはここまでです。

【予告】ブログのタイトルは変更する予定です

人生

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2017/4/19追記 タイトルを「辺境x日記」に変更しました。

 

最近、このブログについて考えていることがあります。

それは、

 

僕のようなブログ初心者にとって、今、ここに何を書くかは重要ではない!

 

ということです。

何を言ってるのか分かりませんね。

 

もう少し詳しく言うと、

自分が何者かを明示していないのに、記事だけ量産しても読者は面白いと思えないのでは?

という事です。

 

例えば、自分が非常に面白く読んでいるブログに「ポジ熊の人生記」があります。

そのブログでは「雑記ブログを書こうよ!」とか、「とにかく書こうよ!」というお話が多いのですが、それ以前に、一つ大きな特徴があります。

 

それは、記事の多くが

「ブログアドバイザーのポジ熊です。」

で始まる事です。

自分の役割を「ブログアドバイザー」と明示する!

 

さらに、自己紹介のページのすさまじい充実ぶり。

www.pojihiguma.com

 

読者は単に道ばたで拾った文章を読みに来るのではなく、「興味を持った誰それの書いた」文章を読みに来るのだと思うのです。

そのためには、書き手のキャラが立ってないといけない。

少なくとも、どんな人物なのかが明示されている必要がある。

 

このポジ熊さんの「自分」の打ち出し方を、おおいに参考にすべきではないのか。

 

例えば、増田(はてなAnonymousダイアリー)。

あれも、一見匿名の雑多な文章群に見えるけど、あれはあれで

「何でもぶっちゃけて書いてしまう増田さん」

の書いた文章をみんなが読みに来るのだと思います。

だから増田は記事によってはすさまじいアクセス数になる。

 

と思ったら、すでにこれもポジ熊さんが主張しておられた。

ブログにとって、プロフィールやアバターを真剣に考えることは、サイトを大きくしていく上でとても重要なことなんです!

www.pojihiguma.com

 

そうなると、自分のこのブログに関しても、「うーん、今日はどんな記事を書こうかな−」ということをこれまで考えてきたけど、そうではなく、

「自分は何者で、その立場からして、どんな方面の記事に力を入れる」

という事を明示するのが最初のステップなのかなと思うに至りました。

 

それで、「最も書きたい事」から一気に書いていく。

でも、何が「最も書きたい事」なのかは慎重に選ぶ。

 

そうして軸を作った上で、その後で、話題をいろいろ広げたり、雑記を書いたりというのが進むべき方向性なのかなと思うのです。

 

というのは、ここまで37記事書いてきたのですが、さきほど多くの記事を消去し、17記事にしました。

自分が書きたいことが、わかって来たからです。

 

どういう自己紹介を書くかも固まってきました。

自己紹介に書きたくない事もあるのだけど、それを書かずには自分の「最も書きたい事」を書けないから、大変だけど書こうと思います。

 

それらが準備できたら、ブログのタイトルも変更する予定です。

ありがたい事に、このブログも現在16名の読者登録を頂きました。

近日中に突然方向性が変わるかと思いますが、今後ともおつきあいいただければと思います。

 

(ということで、準備のためにまずはデザイン(PC版のみ)を変更しました。)

英語の通じない日本はすばらしい

英語 旅行

先日、英語教育を強化すべきというエントリーを書いたのですが、今日はその逆の話。

bearcub.hatenablog.com

今日、晩ご飯を「いきなり!ステーキ浅草店」で食べたんですよ。

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そしたら、僕の背後で、欧州人とおぼしきおじさん二人組と店員のやりとり

おじさん:「Bill! Bill! (お会計!お会計!)」

店員:「ビール?ビール?、、レギュラーでいい?」

おじさん:「Water! Water! (いや、飲み物は水でいいよ!)」

店員:「じゃ、失礼します。」コポコポコポ、、(水追加)

 ああ、この欧州人のおじさんたち、、ここで英語が通じなくて、永遠に水飲んでるパターンだ。。。

 

でも、僕はこういう状況は嫌いではない。

旅行先で言葉が通じなくて多少の苦労をするのは、いい旅の思い出になるから。

 

そしたらなんとおじさんが、スマホで調べたのか、

おじさん:「オカイケーヲ、オーネガーイ、シマース!」

と中くらいの声で話し始めたのだ。やるな!!

しかし、店員はすでに遠くでレジ打ちとかで聞こえない状況。。

その中くらいの声は、あちこちのテーブルからのジュージュー音でかき消され。。。

 

3度くらい「オカイケーヲ、、」を繰り返しただろうか。

さすがにちょっとかわいそうになって、かつ、僕の愛する「いきなり!ステーキ」の世界的な評判が下がるのもしゃくだし。

しょうがないので、僕がお会計に行くついでに、彼らのテーブルを見ると、案の定すでにお会計の紙は置いてある。

(彼らのお皿でちょっと見づらい位置に。)

 

彼らも色々試行錯誤したことだろうから、もういいよねと思い、その紙がお会計であることを教えてから店を出ました。

去り際におじさんが

おじさん:「グラッツェ!」

と言ってたので、イタリア人?たぶん。(欧州言語はよくわからない。。。)

 

よく思うのだが、日本の観光地は最近中国語一色である。

中国人観光客のために、中国語の案内を完備し、ひどいと中国人店員を配置するほどだ。

でも、あれは中国人観光客には評判が悪い面もあると聞いている。

「どこに行っても中国語の看板、店員さえも中国人なので、中国旅行と変わらない。」

のだそうだ。

 

そりゃそうだろう。

日本人がホノルルに行って、免税店で日本人店員と日本語で話をして、つまらなく思うのと同じである。

 

そう考えると、観光地としての日本は、所々で日本語しか通じないくらいがちょうどいいのだと思う。

 

インドの辺境に行くと、良くてヒンディー語までしか通じない場面が多々ある。

↓インドの辺境の例(地図で言うとここらへん

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ヒンディー語は発音が英語よりは難しいし、語彙もなじみが無いので大変なのだが、それでもヒンディー語でやりとりができると非常にうれしいものである。

「よし、日本に帰ったらもっとヒンディー語勉強しよ」

と思うものだ。(でもそれも半年ほどしか続かないけど)

 

言葉の壁は、旅行の際には「異国情緒」という面で魅力的なポイントの一つである。

 路頭に迷ったりしてはいけないが、多少困るぐらいでちょうどいいのだ。

 

僕らも、たとえ英語ができなくても、身振り手振りで教えてあげると、とんでもなく喜ばれるものである。

Quoraとかでよく話題になっているのは、

「日本人は親切だ。だって道を聞くと、一緒についてきて案内してくれるんだ。」

という意見だ。

僕らからすると、これは「英語で道を説明するのがつらいから、、、。」というのが実態なのだけど、でも、これは観光客に大受けである。

この言葉の壁こそ日本の観光資源の一つに挙げていい美点だと思う。

 

最近は、日本語で話すと英語音声にしてくれる機械翻訳バイスが実用化されつつある。

そのうち日本の観光地のあちこちで使われるようになると思うけど、なんとかそんな無粋な事態を阻止できないものだろうか。

 

日本の観光地でこそ、「日本語しか通じない状況」をある程度は大切に保全していけないかと思う事しきりである。

 

↓(参考)先日の記事。

bearcub.hatenablog.com

ダメ英語教師に習ってはいけない

英語

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先日Yahooニュースで話題になっていた件を、さらに検証・訂正したこの記事がすばらしい。 

news.yahoo.co.jp

英語教育の場で教師の質が重要なのはどう考えても明らかである。

僕は今でこそある程度英語が使えるようになり、会社での英語の業務は全て任されているが、中学以降の英語の先生の能力には常に疑問を感じていた。

英語力不足の先生の致命的な欠点

英語教師自身に英語力がない場合、害悪しかない指導方法に偏るのである。

害悪しかない指導その1「コーラスリーディング」

先生がまず1文音読し、その後生徒全員でその文を音読するというやつである。

「みんなと同じペースで朗読しなければ」という同調圧力の中で英語のカタカナ読みを強いられる時間は、英語の学習にマイナスでしかない。

先生にとっては個別に生徒の発音をチェックする必要もないし、先生自身も生徒全員のレベルに合わせて単語を区切って読まざるを得ないので、全体で低レベルに突進していく自殺行為である。

僕はコーラスリーディングの時間は教科書を机において、肘をつき、耳をふさいで

「聞いてはだめだ聞いてはだめだ」

と思いながら、自分のペースで英文をつぶやくことでこの逆境を乗り切っていた。

害悪しかない指導その2「発音問題」

こんな問題を見たことがあるだろう。

以下の下線部は同じ発音であるか?

cat  cut

この問題はテストの筆記問題の常連である。

筆記テストでは、一人一人発音チェックするわけにもいかないので、この方式で出題するしかないのかもしれない。

しかし、ダメな先生は授業中もこの形式で「発音指導」するのである。

いや、それは直接生徒に発音させて、先生自身がそれを良いかどうか聞いて指摘してやれよと思ったものだ。

中学1年の最初に発音のトレーニングが無いことがそもそもの問題だ。

99%の生徒はカタカナ発音に収束していくしかない状況なのだ。

その後も発音を一つ一つ習うことや、発音が重要であることを強調することすらないまま何年も過ぎていくのはただただもったいない。

害悪しかない指導その3「英文和訳」

ダメな先生は「英文和訳」に力を入れる。

だって、もし逆の「和文英訳」で生徒が独自に教科書にないパターンの英文を書いたりしようものなら、それが正しいかどうか自分でも自信を持てないから。

逆に英文和訳であれば、まちがいを指摘しやすい。日本語の範疇で正しいかどうかを判定できるから。

こうして、ダメな先生は生徒に「英語をいちいち日本語に変換すること」を強制し続ける。

そんな作業してたらいつまでたっても実用レベルに至らないというのに。

英文和訳も筆記テストでの最低限の出題にとどめるべきで、普段の英語の練習の際にはどんどん減らしていくべきものである。

むしろ「英文和訳をしていてはいけない」ということを教えてあげないと、これで何年も時間を無駄にする生徒が輩出されてしまうのではないだろうか。

文科省のスローガン「聞く・話す・読む・書く」がダメ

文科省は折に触れて「聞く・話す・読む・書くをバランス良く」と主張する。

しかし、英語を身につけた人はこれに違和感を感じるだろう。

この4技能は「バランス」ではなく、むしろ「順番」であるべきなのだ。

おそらく留学など経験せずに英語をまともに使える多数の人間は、最終的に英語を身につけた時期には

発音→聞く&シャドーイング+読む→話す+書く

などの順番で進んだのではなかろうか。

(後半は人によって多少の違いはあると思うけど。)

文科省の言う「バランス良く」は、ともすると「同時に」となってしまう。

言語の学習の初期段階ではむしろ文字に頼らない時期が重要なことも多い。

まとめ

僕が中学の頃というのはすでに30年も前の事なので、最近は状況が改善されているのかもしれない。

僕の頃は英語教師の質がバラバラで、英語教師というのは「他山の石」にするしか使い道がない場合が非常に多かった。

 

最近は時々英語の発音が異様にうまい小学生に接することもあるので、良い学習環境もあちこちにあるのだろう。

 

英語教師の質は高いにこしたことはない。

それも英検○級とかTOEIC○○点で測定できるレベルではなく、さらにその上(というよりは、それよりも広い英語使用経験)である必要があると思う。

(そもそも1教室40人に一度に外国語を教えるというのが、かなりの超絶技巧を要するというのもあるけれど。)

 

あるいは、小学生や中学1年のような「英語混沌期」にはネイティブをあてがってもいいかもしれない。

早い段階での英語教育は重要ではあるけれど、逆に早い時期に「カタカナ英語+英文和訳脳」が浸透してしまっては、思い切り逆効果にしかならないのだから。

「会社の宴会」の本質

人生

今日は会社の宴会があった。

毎回毎回イヤなんだけど、せっかくなのでなぜイヤなのかを考えてみた。

ブログのネタにもなるしね。

宴会嫌いの心理

僕は会社での仕事は楽しくやれている。

会社の仲間を信頼もしているし、明るく楽しい職場だと思う。

仕事中は。

 

しかし、会社の宴会の場になると、とんでもなくイヤな気分になる。

何日も前から憂鬱で憂鬱でしょうがない。

世間的には僕みたいな人は「つまらないやつ」になるのだろう。

逆に、僕から見れば、「なぜあれが楽しいの?」とずっとずっと違和感、いや、嫌悪感を感じている。

 

それでここ数年、僕は「酒を飲めない人」を演じている。

(半分ぐらいは事実ですけど)

 

今日はさらに

「今ピロリ菌の薬を飲んでいるので」

との理由もプラスして、アルコールゼロにすることができた。

 

そして二次会も行かずに脱出。

我ながら完璧なコンボが決まったと思う。

今回僕の宴会評価はさらにマイナスに落ちていったであろうがそれで良い。

 

とは言うものの、僕はプライベートな友人との宴会は非常に楽しいし大好きである。

楽しいのでお酒も飲む。飲み過ぎることもある。

 

じゃあ、なぜ会社の宴会はあんなにイヤなのか?

宴会がイヤなのはなぜか?

僕にとって、会社の宴会のイヤな所を挙げると、ざっとこんなところだろうか:

  • 酒を飲まない人を見下す。
  • カラオケに参加しない人への陰湿なイジメ。
  • 下品この上ない話題の数々。
  • マイノリティ(外国人・性的マイノリティ)へのヘイト発言だらけ。
  • 男尊女卑根性のあからさまな発露。

これはもう前時代的かつ教育の不十分な田舎者の会合でしかない。

(ここで言う「田舎者」というのは「田舎に住む人」の意味ではなく、「人間の多様性を知らない人」の比喩ね。念のため。)

 

しかもこの最悪の時間をいかにも楽しくすごしているふりをしないと、「会社の団結に非協力的」と見なされるからたまったものではない。

 

会社の宴会がイヤなのは、酒や宴会そのものがイヤなのではなく、

  • みんなで飲むと楽しい→みんな飲まないといけない
  • みんなで親睦を深める→内輪の親睦のためには他者を卑下してかまわない

という「同調圧力からくる異端の排斥」の精神がイヤなのである。

「会社の宴会」の本質

「会社の宴会」には目的がある。

 

それは、「仲間意識」=「集団に忠実な精神」をはぐくむことで、会社にとって扱いやすい人員を養成することである。

だから、会社が費用を負担することもやぶさかではない。

上司が部下を飲みに誘うのは、「親睦を深める」と言えば聞こえがいいが、最大の実利は「部下を味方につける」ことだ。

 

僕ら「社員」にとってこれは都合のよいことなのだろうか?

スネ夫的精神の方にとってはいいかもしれない。

組織の傘の中に安住したいなら、これにグルグルと絡め取られるのもありなのかも。

 

でも、組織を活性化するためにも、相対的な視点を持つ者でありたいと思うなら、この渦に飛び込むのはやめておいたほうが得策かもよ。

そもそも僕はあんな排外的な会話は楽しめないから、組織云々の前に加わりたくないと思うのだけど。

まとめ

いろいろ書いたけど、要約すると、

会社の宴会大嫌い!!

なのです。

これからも全力で回避し続けます。

 

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